不改其楽

「生きる」ということ

ある時私は楽しかった旅行の話をある友人にすると、「それはあなたは楽しかったかも知れないけど、僕には何の関係もない。」とそっけない表情をして呟いた。

私はその時思った。その通りだ。
確かに私が楽しかった事など彼には何の関係もない。つまり自分が楽しいことしか彼には興味がないのだ。そして、自分でつまらないと思っている彼自身の生活からは何も生み出されることはないだろう。
他人の喜びを自分の喜びのように感じられる人は幸せである。そして、そういう人と出会えた人は幸せである。
他人の痛みを自分の痛みのように悲しめる人は幸せである。そして、そういう人と出会えた人は幸せである。
私は以前の会社を退職して今の職場を選んだ。毎日、悩んで眠れない夜を過ごした。もう悩むことにすら行き詰まりを覚えて行き場を失ってしまった私は後先も考えずに黙って職場を独り去った。寂しい別れだった。
確かに自分自身にも企業にも様々な問題があり、それらは安易に許すべきものではない。
だが、だからと言って以前の会社で働く全ての人を批判することは慙愧に堪えない。

恐れずに敢えて言うなら、暴力団員にも良い人もいれば、聖職者にも無頼漢がいるようなものだ。
思い詰めて、視野狭窄に陥った時にはあの頃のことを時折、思い出す。そして、痛みを思い出さずにはいられない。

苦しみの中で生きるときは全てを捨ててしまうことや全ての人の期待を裏切ることが時として大切な時もある。
そして自分を憎む人に苦しめられた時には、その苦しみから逃れるように生きる時もある。

すべてがうまくいくなんてことは有り得ない。
全ての人に好かれることも過大に期待をしない。
ただ周りが敵ばかりのように思えたとしても、自分を信じてくれる人のために。。。
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四月に想う

どんな組織であれ、さまざまな人が去っていき、そして
新たな人がやってくる季節である。

長く一緒に働いてきた人は、家族以上に長い時間を
ともに過ごしてきた人も中にはいるだろう。
そういう人との別れは寂しくもある。

しかし、どんなに親しかった人であろうと、快く送り出し、どんなにゴタゴタ問題を起こした人であろうとも
黙って送り出してあげるべきというのが、私の考えである。

そして、同様にどんな人であろうと、新しく職場に来る人は温かく迎え入れてあげるべきである。

新しく部署を変わった人にとっては、何歳になっても
まったく初めての仕事であり、業務の進め方や論理的な
思考力は経験と訓練によって培われているが、仕事の
内容もさることながら、新しい人間関係の中で仕事を
するということが、大変なストレスとなりうる。

長く異動を経験していない人にとって、それは
忘れがちである。
仕事も当たり前になり、新しく来た人が知らないことを
馬鹿にするのを時折目にするが、まったく愚かな所作と
言わざるを得ない。

本人が望んだ異動ばかりではないだろう。
いずれにしても新たな場所で新たなチャレンジをする人の勇気を称えることの出来ない社会は未成熟であり、評価をすることが出来ない組織は不幸である。

パンドラの筺を開く

堀江氏でなく、外資や大企業が買収を同じようなやり方で仕掛けていたとしても、ここまで騒がれることはなかっただろう。
彼に買収されることが腹立たしいという、もはや彼のパーソナリティに由来するところが
あまりに大きくなりすぎてきている。

まさにヘルメスから『好奇心』を与えられた*パンドラの如く、ライブドアが禁断の扉を開いてしまった。
プロ野球の新規参入の扉をこじ開け、さまざまな法律すら改正へと進み始めた。
それも今までのゆったりとした時間の流れが突如、猛烈な勢いに変わってしまった。
動かないことが平和を意味するものではないことを改めて思い知らされた平和ボケした我々は、行き場を失い、ただ狼狽して、戸惑うばかりである。

今の時代、保守的になろうと背を向けて逃げ出そうとすれば、背後からめった斬りにされる時代である。むしろ保守的な人間の方が、危険にさらされているのかもしれない。

彼の遣り口には誰もが心の中に、応援したい気持ちと叩き潰してやりたい欲望の二面性を覚えて、複雑な気持ちを抱かざるを得ない。

堀江氏は、真意を理解しようとしない我々の低脳さに辟易しているだろうが、それでも理解できない人がいる限りは対話を続ける努力は続ける他ないだろう。
また本人もそれは十分理解している。
結果はどうあれ、堀江氏がこじ開けた扉の向こうに、『希望』が残されていることを私は切に祈る。

*パンドラの筺
ゼウスがすべての悪と災いを封じこめて、人間界に行くパンドラに持たせた箱。パンドラが好奇心からこれを開いたため、あらゆる罪悪・災禍が抜け出て、人類は不幸にみまわれるようになり、希望だけが箱の底に残ったという。

物事の本質(後編)

ピーター・ドラッカー(経営学者)氏は90歳を超えて今なお愛されつづけている。
それは彼が現れる以前には数字と論理が中心だった経済学という無機的な世界に生命を吹き込んで、生き生きと経済を語り、人を語ったからだろう。

彼はこんなことを言っている。
「コンピュータは論理の機械である。まさにそれが強みであって、同時に限界である。外部の重要な事象は、コンピュータや何らかのシステムが処理できるような形では把握できない。しかし、人間は、特に論理的に優れてはいないが、知覚的な存在である。そしてまさにそれが強みである。危険は、コンピュータの論理やコンピュータ言語に表せない情報や刺激を、エグゼクティブが軽視するようになることである。現実の知覚的な事象に盲目となり、過去の事象にのみ関心をもつようになることである。こうして膨大な量のコンピュータ情報が、外部の現実からの隔絶を招く恐れがある。」と。
***
どんな数字も膨大な数字の羅列だけでは意味を持たない。それに息を吹き込むのが
経営管理本部の本質なのだろう。

我々は電話を扱う会社だと思いがちであるが、その本質は電話を使うお客様を扱う会社である。
経営管理本部も数字を扱う部署と思いがちであるが、その本質は数字を使い現場と経営の人を結びつける部署である。数字の裏にある真実を如実に物語るものでなければならない。
数字の資料を作成すること、それは即ち、その数字に意味を与え、命を吹き込むことに他ならない。

そして、経理も経営管理も常に現在を起点として、過去、未来を映す鏡であり、現場を如実に映し出し、経営判断の重要な要素となるという、その本質を十分理解した上で、知識や経験を積み、それらを使いこなす必要がある。
そして、今、進められようとしている管理系システムの開発も物事の本質を見極めた上で、温かい血の通ったものを目指さなければ、過酷なスピードアップのみを強いられるばかりになるだろう。
合理化は言うまでもなく、業務を減らすことが目的ではなく、業務の高度化がその本質となる。そのため、それだけでも過酷な面がある。恐らく合理化を突き詰めた後で振り返ってみると「あぁ、あの頃は毎日遅くはなっていたけど、作業が多かったり、下らない調整事項に時間や労力をかけていただけで、実は楽だったんじゃないか。」と思うものだ。そう思えないようなものは、そもそもそれは「合理化」とは言えないのかも知れない。
それは逆に言えば、その本質さえ見誤らなければ、簡素なシステムであっても、人の力がそれを補って余りあるものとなる。
もっとも、知識も経験もろくにない私が臆面もなくこのコラムを書いていることこそ、ひょっとしたらその本質を見誤っていると言うべきなのかも知れない。

物事の本質(前編)

経理は現在から過去を映し出す。そして、経営管理は現在から未来を映し出す。
もっとも、両者はお互いに密接に関わり合いながら機能するもので、必ずしも明確に峻別できるものではない。

月々の資料から現場の変化を読み取ることが出来て、その資料に表されている数字の変化によって、「現場で何かが起こっている」ことが分かるものである必要がある。
少なくともあらゆる事象において、物事の本質を各人が頭の片隅にとどめておくことは大切なことだと私は考えている。

「下っ端の自分が考えるべき問題ではない」と考える部下もいれば、
「そんな下らないことを考えている暇があったら、作業を正確にやれ」という上司もいるだろう。
しかし、すべての社員が経営に関する責任の一端は担っており、誰かは命令に従い作業だけに日々を費やし、誰かは常に大きな決断のみを強いられるような形が果たしてモチベーションをあげることになるだろうか。
恐らくは「自分はまだ言うべき立場にない」と考える習慣がひとたび身に付いてしまった者は、課長になっても「部長ではないから」、部長になっても「本部長じゃないから」、挙げ句の果てには「まだ社長じゃないから」といって何処までも何時までも重大な決断から逃れ続けることになるだろう。
膨大な作業を前にして、組織に対して従順で、日々の残業に耐えうる体力のあるものだけが評価され、そうした忙しさの中で物事の本質を見失うようでは組織の成長は危うい。
物事の本質を見極めることなく、忙殺されている組織は必ず自浄能力が損なわれていく。
そして、ひとたび狂気に走れば、保守的な人ほど自覚することなく組織の狂気を助長する。

「上に言われたことをやっただけだ。」もしくは「前からやっていたことを引き継いだだけで悪いこととは思わなかった。」ということは、企業の不祥事が明るみになった時にしばしば聞かれる言葉である。

だが、それは麻薬の運び屋やヒットマンと犯罪の種類は異なれど、幼稚な精神構造には大差がない。

彼らは捕まった時に必ずこう口にする。「鞄の中身は知らなかった。」
「殺せと言われたから殺した。」という具合だ。
目の前の些末な事象や、膨大な作業に目を奪われて、物事の本質がどこにあるのかを見失うことは、即、組織の衰退を招く危険を孕んでいる。

そして、合併を繰り返すことで、急激に膨張した当社のような組織においては、なおさらその危険に晒されているということは認識しておく必要がある。

(後編に続く)

『合併』という言葉の持つ意味

何年もに亘った合併を乗り越え、今、本社機能が統合されようとしている。私自身も幾度もの合併を経て、今に至る。

初めて本社に足を踏み入れたとき、出身会社によって言葉の言い回しが異なることに、一度は誰しも戸惑ったことがあるだろう。出身母体の異なる社員たちが巧みに操るあらゆる言葉は果たして、真意を相手に伝えることができているのだろうか?
分からない者が愚かなのか?伝えられない者が愚かなのか?

ロシアの文豪ゴーリキーの小説で「私の大学」というものがある。
貧しくて社会に抑圧されながらも、靴磨きをしながら懸命に生きた主人公は言う。
「私はろくに学校に行くこともできなかった。だけど、私にとって出会う人々、私の身に起こった出来事、そのすべてが私にとって大学である。」

どこの学校を卒業したか?何年も昔に卒業したというだけで、それが本当の意味での「私の」大学といえるのか?
どこの会社の出身か?現在、存在もしていない会社の出身であるということがどれほどの意味を持つだろう。
何歳であるか、どんな役職であるか、男であるか女であるかさえも大きな問題ではない。

「昔、どんな学校を出た、どこの会社の出身だ」なんて話は誰も本当は興味がない。あるとすれば、壊れそうな自尊心の拠り所、もしくは嫉妬心の裏返しに過ぎない。確かにノスタルジアは私の中にもある。だが、今、自分に何ができるか、そして、明日、自分に何ができるようになるかということに集中すべきである。

何かを手にするためには時として、何かを手放さなければならない。
過去と決別する痛みに耐えうる者のみが未来への切符を手にする。

旧約聖書のバベルの塔*の如く、空中楼閣を築き上げた者たちが、出身会社が異なることで共通言語をもてずに、その経営のスピードが損なわれたなどと揶揄されないことを願っている。

きれいなビルや新しい組織は単なるうわものに過ぎない。
「お互いに分かり合いたい」「自分の気持ちを伝えたい」という、社員である前に人間としての原点を大切にすることが、真の意味での合併といえるのではないだろうか。
論理的ではないかも知れないが、「人」と「人」とのぶつかり合いが、組織にとって計り知れない原動力になりうると信じている。

今、新たな歴史の時を刻み始めた。
いつの日か、同時代に生きられたことに、そして今ここにいる仲間と働けたことに喜びを感じられるようでありたい。

*バベルの塔:旧約聖書創世記第11章に記されている伝説の塔。ノアの方舟に救われた後、人間が天にも届くような高い塔を築き始めたのを神が見て、その奢りを怒り、人々の言葉を混乱させ建設を中止させたという。

マニュアルと行動指針

先日、本を読んでいると面白い話が出ていた。ある会社が徹底的な成果主義を導入するにあたり、電子メールの仕事の依頼に返信する時間の早さを計ってその評価基準に加えたという話だ。
その時間を計るプログラムを導入するにあたって事前の調査では、明らかに仕事に対する取り組み方が熱心で、且つ判断力・事務処理能力の優れた者が、メールの返信が早いという結果が出ていたそうだ。
ところが、である。
実際に導入したところ、事前調査とは異なる結果に人事プログラム担当者は愕然とした。
理由がわからないまま、数ヶ月が経ったとき、彼女がたまたま社員同士の井戸端会議を耳にして、すべての謎が解けた。
「メールの返信時間を計り始めるのは、そのメールを開封してからなんだって。だから、手が空くまでメールを開封しなければいいのよ。」
「とりあえず『後ほど回答いたします。』って、返事打てばプログラムで計測されるらしいよ。」

この件のエピソードは、「未承諾広告」とよく似ている。
「※未承諾広告」とDMメールには入れると決まって、私も未承諾フィルタをかけているが、それでも「米未承諾広告」「※末承諾広告」中には「※羊承諾広告」なんてムチャクチャなものまであり、フィルタの網をかいくぐって入ってくる有様だ。
もっと手の込んだものはタイトルで「お久しぶりです!」など
という紛らわしいタイトルで、本文を読み込んでみると「※未承諾広告:エロエロ▲×◆▽○(*^。^*)」とあったりする。これを見た時の脱力感は相当なものである。
人は社会の中で、それを意識するしないは別にして、法律、社則、マニュアルなどさまざまなルールで縛られて生きている。
マニュアルは多くの人が働いていく中で理由があって生まれてきた。マニュアルがなければ人に仕事がついて回り、昨今の経営管理本部のように、人事ローテーションが頻繁にあると、新しく来た者たちは戸惑うことも多く、現状に漠然と疑問を抱きながらも、どのように改善すべきなのか具体的なイメージを持てずにいるものも多い。

だが、マニュアルがいくら整備され、チェック体制を強化して官僚的な組織を作り上げたとしても、そのマニュアルの中で狡猾に立ち回ろうとする人は必ず出てくる。
マニュアルを知ることは必要である。そして、そのマニュアルを第三者的な目で見ることも重要である。しかし、マニュアルを超えた部分の何か、倫理観のようなものを持つものこそ、組織を成長させるのであり、そういう人間こそが上に立つべきなのだと。
そこに行動指針の意義があるのだろう。
いくら知識があり、経験を積んだとしても、高邁な思想を持たないものは組織を成長させない。信頼関係を築き、上の人間に対して悪い情報を耳に入れることを恐れずに、上の人間は動揺することなく負の情報・未知の情報に果敢に立ち向かうことが強固な組織を生み出す。何事もなく事を済ませようとすることこそ不自然で、さまざまな問題に対する共通の意志が必要なのだと思う。
地雷はいたるところに埋められており、道なき道を踏み進むためには、埋められた地雷は爆破するしか処理する手段はない。
組織が目標を持ち、成長するためには多かれ少なかれそうした危険を乗り越えていかなければならない。
マニュアルはあくまで必要条件であり、十分条件にはなりえないということだ。
これを書きながら、私も今一度、行動指針を読み返してみようかと、ふと思った。

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